死生観について~理学療法士として想う事~

先日『死生観ってなに?』と

いうオンラインカフェに参加

させて頂きました

 

講師は作業療法士と僧侶と

衆議院議員の三足の草鞋で活躍

されている堀越啓仁先生

 

同じ療法士かつ年齢が近い事も

あり、気さくに話をして頂ける

のは本当に有難い限りです

 

今回は数人の参加者以外は

はじめましての方々ばかり

でしたが、だからこそ自らの

意見を積極的にぶつけさせて

頂きました

 

自らの意見を口に出さないと

参加者に『どんな人間なの

か?』『どんな価値観を持って

いるのか?』が伝わりませんし

 

良くも悪くもフィードバックが

得られないからです

 

オンラインカフェの大半の時間

は質疑応答に充てられていたの

ですが、その中で参加者の1

が『当たり前に死にたい』と

いう言葉を使われました

 

わかりやすく表現するので

あれば『どうやって生き抜くの

かは自分で決めたい』という事

でした

その中で討論となったのが入院

中の食事について

 

癌の終末期であとどれくらい

生きられるのかわからない状況

であったり、進行性疾患でいつ

食べられなくなるかわからない

(誤嚥する可能性有り)状況の

場合、

 

本人と家族が望んでいれば食べ

させても良いのではないか?

 

そんな医療業界でもよく議題に

なる内容でした

 

私はこの手の話題について自分

の考えを記事にした記憶が

ありますが

 

『好きな物を食べたい』

『美味しい物を食べたい』

 

と思うのは人として当たり前の

感覚だと思います

 

そして多くの高齢者の最後に

残る欲は『食欲』なんですよね

(たまに●欲が元気な男性が

る事は否定致しません笑)

 

少なくとも私は本人に

『食べたい』

 

ご家族に

『食べさせてあげたい』

 

という意思がある場合、STとも

意見交換した上で、主治医に

相談すると決めています

 

オンラインカフェの中で堀越

先生が触れられていましたが、

療法士はいわゆるリハビリ

(間一般のイメージは機能回復

訓練)をする仕事では

ありません

 

正確には理学療法、作業療法、

言語聴覚療法を用いて

 

『リハビリテーション』を支援

する仕事です

 

ではリハビリテーションとは

何なのか?

 

色々な捉え方はあると思い

ますが

 

『その人らしく生きる権利

の回復』

 

の為に行われる全ての活動では

ないでしょうか?

 

そういった視点から考えると、

私は対象者の『食べたい』や

ご家族の『食べさせたい』を

実現する事もリハビリテー

ションを支援する事に繋がると

思っています

 

だからこそ出来るだけの事は

したい、ただそれだけの事です

 

現実的な話として思い切って

食べさせて誤嚥すれば命に

関わります

 

そのリスクをしっかりと説明

した上で、対象者と家族が望む

のであれば挑戦してみる価値は

あるのではないかと私は思い

ます

 

どう生きるかは対象者とご家族

が決める事であり、医療従事

が決める事ではないからです

 

挑戦した結果、誤嚥性肺炎を

発症し、命を落とした

 

当に全ての家族が『やっぱり

食べさせなければ良かった』と

後悔されるのでしょうか?

 

べたい物を口にした時の満足

そうな表情を見て『出来るだけ

の事はした』と納得される家

もいるのではないでしょうか?

 

こういった書き方をすると、

誤解を招くかもしれません

『出来るだけの事はした』と

納得されているご家族を見る事

で医療従事者も『出来る仕事は

した』と感じる事が出来るので

はないでしょうか?

 

食事に関する事だけでなく

『死生観』は人それぞれだと

思います

 

自らの死生観を決して他者に

押し付けず、対象者やご家族の

死生観に耳を傾ける努力をこれ

からも続けていきたいと改めて

感じる事が出来た貴重な時間

でした

 

最後に問いかけさせて下さい

 

あなたはどんな最期を迎えたい

ですか?

ブログに関するご意見・ご感想

等ありましたら

 

こちら

 

までよろしくお願い致します